未来部家庭訪問(もどかしさ)
クリスマス前。
女性部の先輩に連れていってもらい、未来部員、つまり創価学会に入会している子どもがいるお家を訪ねてまわりました。
クリスマスらしくラッピングしたお菓子を袋から取り出すと、子どもたちの目はとたんに、そこに釘づけになります。
お金にあまり余裕がなく、ほんの気持ち程度のものしか準備できなかったのですが。それでも子どもたちが目を輝かせ、笑顔で受けとってくれるので、こちらのほうこそ嬉しくなってしまいました。
お菓子を渡してしまうと、あとは女性部の先輩とその家のお母さんが会話する隣で、ただただ、相づちを打っているだけです。
以前に比べるとずいぶんマシにはなったのですが、緊張しやすい性質と口下手は、そう簡単に直るものではありません。少し年長の子が、奥に引っ込むこともできずに退屈そうにしている姿に昔の自分を重ねながら、その向かいで、ただ突っ立っているばかりです。
何もぼうっとしているわけではなく、頭の中では目まぐるしく考えを巡らせているのですが、緊張すればするほど、言葉を口に出す前に、喉のあたりで検問にひっかかってしまうのです。本当にそれを言って大丈夫なのか?今このタイミングで言ってよいことなのか?いちいち言葉を検閲している間に、会話は次の話題に移ってしまい、用意していた言葉は意味をなさなくなる。いつもの私のクセです。私にとって人との会話はスポーツです。考えこみ、迷ってしまうと、うまく出来ません。
本当は、子どもたちの話をもっと聞き出したいです。子どもたちに語りたいことが、たくさんあるような気がします。
大人になると忘れてしまう、子どもが見ている世界のこととか。その世界で、どんなふうに一生懸命に生きているのか、とか。
子どもが、私たち大人の来た道を、ただ辿っているだけだとは思いません。子どもたちの生活の中には、大人たちが忘れてしまった感情も、大人たちが経験してこなかった今の時代だからこその体験も、両方あると思います。そういったことを彼らからもっと学びたいのですが……親ですらない私は、会いに行ったわずかな時間のなかで、彼らの人生を垣間見ることしかできません。
また、これは私自身の願望でしかありませんが、出会った子どもたちには未来の平和を担う人材になってほしい、とも思ってしまいます。
戦争のない世界。一部の犠牲の上に一部の幸福が成り立つ、そんな仕組みとは決別した社会。本気で実現しようと思えば、気が遠くなるような長い道のりです。創価学会員でも、創価学会員でなくても、宗教に関わらずどんな立場でも、平和を願い行動している人が世界中にいます。そのあとを誰かに継いでもらわなくてはいけません。
とはいえ、それはあくまで私の願いであり、幸せにはいろんな形があります。まずは目の前の子ども一人一人に、めいっぱい、自分の幸せを掴んでもらいたいし、この今を、伸び伸びと、楽しく過ごしてもらいたい。私もそのために、わずかでも力になれたら、と思います。
創価学会は私にとって訓練の場です。厳しい方がいなくて、とにかく皆さんが優しいので、自分のペースで、少しずつ、成長させてもらっています。
私の訓練につきあってもらっている子どもたちにも感謝です。
私に出来ることは少ないけれど……私の良いところもカッコ悪いところもぜんぶ見て、君たちの幸せのために、少しでも役立ててほしいなあ。